2009年6月30日 (火)

橋下の契 ―未報の魂―

 小川のせせらぎは穏やかに。静かな水の流れとともに時は移ろう。晴れわたった空の下で子どもたちは水飛沫をあげて遊んでいる。
 橋の柱に小さな傷がつけられて一月が経った。掌を合わせるとちょうど手の指先にぴたりと合ういくつかの傷。たったひとつの約束を信じ、水の底に没していった男がいた。柱についた傷は最期のときまで、男が約束の場所を離れなかった証である。
 そのことを知っているのは一匹のカエルだけである。日輪が顔を出すとカエルはいつもその柱の下へ行き、夜の帳が降りるまでそこにいた。

 あの日、喜々としてカエルに約束を語った男の顔が目の奥に浮かぶ。その夕刻に篠つく雷雨が激しく大地を叩いた。翌日、柱についた傷を見つけたカエルはすべてを悟ったのである。その日から毎日、カエルは柱の下で一日を過ごすようになった。
 カエル自身もなぜ自分がそこに来てしまうのかわからなかった。ただ、瞼の裏に焼き付いた晴れやかな笑顔が忘れられず、柱の傷を見つけたそのときから、約束を信じて死んでいった男が不憫で不憫で仕方がなかった。気がつくといつもその場所にいたのだった。
 男の魂はまだその場にあって待ち人を信じ続けているのかもしれない。溢れんばかりの笑顔のままに。そんな気がして仕方がなかった。そして哀れで哀れで仕方がなかった。
 男の魂を解き放つことができるのは、彼が待ち続けたひとだけである。カエルは橋のそばをひとが歩くたびに「もしや」と視線を注いだ。そしてうなだれることは数え切れない。
 ときどき餅売りが通る。橋の下を見てはいつもにやにやとしていく。カエルにはそれが不愉快で仕方がなかった。頬をほころばせていく餅売りに対して、カエルは風船のように頬を膨らませて低い声で鳴く。
 そして今日も日が暮れて行った。

 カエルは何もできない自分に歯痒さを感じていた。出来ることなら男の待ち続けたひとを探し出して、この場に連れてきたい。首に縄をつけてでも。
 しかし、カエルにとってそれは到底不可能なことである。男の魂を解き放つために待ち人が来ることを彼にかわって信じ続ける。彼にかわって待ち続ける。力なきカエルにはそれしか出来なかった。橋の下で日が昇り、月が顔を出すのを見守る日々が続いていった。

 無数の煌星が天空を埋める。カエルはふと目を覚ました。いつもなら日没を見届けてから寝床にもどるのだが、知らぬ間に寝てしまっていたらしい。連日、柱の下で人を待ち続けるという行為は小さな体に途方もない負荷を与えていた。
 寝ぼけ眼で柱にふと目をやると、傍らに人影が見える。柱にもたれかかるように足を投げ出して星空を眺めている。
 カエルは力いっぱい飛び跳ねて人影の正面に回り込んだ。そして、そこにいるはずがない人物の姿に仰天するのである。
 死んだはずの男がそこに座っていたのである。カエルは思わず膝の上に跳び移ろうと何度も跳ねた。しかし、不思議なことに男との距離は縮まらない。よく見るとその姿は陽炎のようにゆらめいていた。幽鬼になってもなお、男はあの日の笑顔のままにそこに座っている。あの人を待ち続けているのだ。
 その姿をみてカエルはますます不憫に思った。声にならない声で鳴き、泣いた。
 男の目許に光るものがあった。あの日の笑顔のままに、宝石のようなしずくが頬を伝うのが見える。
 いたたまれなくなったカエルは穏やかな水面を揺らさんばかりに大きな声で鳴いた。それからカエルは体から力が抜けていくのを感じ、ついに瞼を閉じた。

 小川のせせらぎは穏やかに。静かな水の流れとともに時は移ろう。晴れわたった空の下で子どもたちは水飛沫をあげて遊んでいる。
 橋の柱に小さな傷がつけられて半年が経った。掌を合わせるとちょうど手の指先にぴたりと合ういくつかの傷。たったひとつの約束を信じ、水の底に没していった男がいた。柱についた傷は最期のときまで、男が約束の場所を離れなかった証である。
 毎日のように柱の下にいたカエルの姿はもういない。しかし夜ごとに哀しい鳴き声が聞こえて来るのである。報われぬ魂に向けられた哀しき鎮魂の鳴き声はその主を失ってなお響き続けた。はじめは訝しがった人々も、いまはすっかり慣れてしまった。星空の下に響く鳴き声は小川のせせらぎのように流れ行き、忘れ去られて行くのであった。

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2009年6月25日 (木)

今日も玉乗りたちが両手をあげる

自分ではどうしても伝えられないことがある。
どれだけ堪えて頑張ってきたのか。
自分ではどうしても言えないことがある。
どれだけ影に日向に支えたのか。
全く報われないここ数月の間、誰かが少しでも伝えてくれることを期待した。
誰かが少しでも伝えてくれると信じたかった。

だが所詮は期待にすぎない。
特にこの一年、ほとんどすべてにおいてその通りであった。
期待の結末の大部分は裏切りによって幕を引くのである。

裏切りは傷をのこす。
ひとのこころを蝕む。
ならば自分はひとの期待に添えるよう努力したい。
ひとを傷つけたくないから頑張りたい。
でも傷つけたくないのはひとではなく結局は自分。
道化である。

それでも哀しきピエロは裏切り意外の幕切れを信じ明日も舞台に上がり続けるのだ。
苦悩に歪む顔を悟られぬよう、念入りに化粧をして。

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2009年6月23日 (火)

失われた絆探し、めぐる幾多の夢

【日記】

…です。
つくづく横のラインに恵まれないと思う今日この頃。
一週間かけてかなり厳格な対応を示してみせたのですが…
どうやらほとんど伝わっていなかった様子。
さすがに本件はかなり頭に来ましたね…

やはり求める水準が高すぎるのでしょうか…?
本当にそうなら一から十まで手取り足取りですよ…

さて。
ここ二ヵ月ほどずっと下痢が続いております。
ときどき来る頭痛は薬で散らせばよし。
それでも気を失いそうになるくらい激しいのが一旬に一度くらいありますわ。

そして相変わらず夢、夢、夢。
夢のまた夢。

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2009年6月19日 (金)

鏡映しの無限回廊

【日記】

久しぶりに日記。
近況報告。

お仕事の方。
ほとんど全くといってよいほど問題なし。
全体会議で新人賞を拝領。
業務評価も奇跡的に全従業員中、トップ3に入り続けています。
基本的なお仕事は大体できるようになりました。
それでも日々勉強、日々精進。

某所から粗品でいただいた観葉植物のお世話が日課のひとつ。
誰もお世話する様子がないのでやってます。
私の席のすぐ後ろに置いてあります。
情が移るとなかなかに愛しいもの。
そろそろ名前をつけてやろうと思っています。

仕事力はこの三ヵ月で大学院時代とは比較にならないほど高くなっている実感があります。
いまの状態で院に戻ったなら(←120%ありませんが)三ヵ月で院生室のシステムを学内最強クラスに引き上げる自信があります。

反面、お仕事以外のことはほとんど全滅。
かなり悲惨な状態になってますわ。

理屈ではわかっていてもダメなんですわ…
いくら合理的に論理的に答えが出されていても人のこころは救われないことがままあるもの。
なぜなら私は「ヒト」だから…
救われぬこころだけは日々、傷を増していくばかり。

愛別離苦
怨憎会苦
求不得苦
五蘊生苦

覚者、かく語りき。

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2009年6月15日 (月)

月下謫仙人

 満ちれば欠け、欠ければ満ちる。万古千秋。変わらぬ山野と変わり行く人々を月はいつも照らし続けている。

 卓に置かれた杯がひとつ。なみなみと液体が注ぎこまれた。
「こんな素晴らしい名月の下で酒がないなどもったいないでしょう」
 今宵は見事な満月である。樽に張られた酒に映し出される姿はなんともいえない趣がある。ふたりの男が満足げにのぞき込んでいる。両手で掬うと、掌中にも名月が映えわたる。指の間から酒が漏れると、手の中には何も残らない。月は背伸びしても届かぬ天上に帰っていった。空を仰いで諸手をあげる。
 そんな自分の姿を自嘲気味に笑う男に、酒を湛えた先ほどの杯を差し出す。
「岑先生。まあ、飲もう」
 男の名は岑勲。杯を受け取り頷いた。
「乾杯…!!」
 一息に飲み干すと、杯を覆し、相手に飲み切ったことを示す。乾杯とは本来そういうものである。
「もう一杯どうだい?」
 嬉しそうにおかわりを勧める。この男こそ、後世の人をして詩仙と呼ばしめる詩人・李白である。
「知っているかい?黄河の水は天から流れ落ちて来ているって話だ。天から来た水も海に流れ込んでしまえばもう戻ることはない。ねぇ…」
 そう言いながら水面に月を湛えた酒樽から柄杓で酒をすくって、空になった杯に月をうつしかえる。男は黙って杯を干す。
「この前、街をあるいていたら溜め息を吐く声が聞こえてきてね。俺はてっきり道端の物乞いが漏らした嘆息かと思ったよ」
 空になった杯を酒で満たす。岑勲は黙って受け取る。酒気が回った顔は赤みを帯びはじめている。
「溜め息の出所をたどってみると、とんでもない所に行き着いてね。どこだったと思う?」
 李白は自分の杯を舐めながら問い掛ける。相手の答えを待つことなく続ける。
「なんと街一番のお大尽の屋敷さ。嘆きの声をあげていたのはそこの主よ。思わずのぞきこんでしまったよ。名前は敢えてあげないけど誰もが知っているあの人だ」
 このとき岑勲は李白が喋り続けながら、相手の杯を常に酒で満たしながらも、自分の数倍の量をこともなげに平らげていることに気付いた。
「栄耀栄華を極めたお大尽に悩みなんてあるものか…と思っていたらとんでもない。鏡に映った自分の姿に涙すら流していたんだよ。あれには驚いたね」
 凄まじい勢いで杯を重ねる李白には酔いが回る気配すらない。
「でもさ、どんな人間だって年をとってやがて死ぬ。そう天から流れ落ちる黄河の水のようにね…いくら金と位があっても人間幸せだとは限らないだ。鏡の前で涙するお大尽も俺と同じで、人間以外の何ものでもないんだよ」
 それだけ語ると李白は満足げに杯を置いた。酒樽に両手を突っ込んだ。掬いあげた酒には天上の月が映り込む。そして岑勲の方にほほ笑みかけた。
「見てよ。天上の月は俺の手の中だ。俺たちは名月ですら自分の掌にできるんだよ」
 そう言うと李白は両手の酒を飲み干した。
「どうだい、岑先生。あの名月は俺の胃袋の中だ。もう誰の手にも渡らない。俺だけのものだ」
 頷きながら、今度は右手で頭を掻く。そしてその手で天を指差す。その指の先には見事な満月が泰然とした姿で浮かんでいる。
「とんでもないよね。自分のものにしたなんてのはとんだ勘違いだ。自分の思い通りになんていかないのが人生だ」
 大杯を左手に、酒を満たした柄杓を右手に李白は自分の席へと戻ってきた。空になった岑勲の杯に柄杓の酒を移しかえる。
「ふふふ。儚いよね。俺たちが生きてる世界なんてさ」
 岑勲が自分の杯を眺めている間にも、李白は三杯を軽々と胃袋の中におさめてしまう。
「おやおや、遅かったじゃないか」
 もうひとり、男がやってきた。李白の親友である元林宗である。知己の合流に嬉しさを隠そうともしないで大杯を勧める。
「酒なくしてなんの人生よ。乾杯!!」
 うわばみ李白の音頭で三人の杯は見事に空となる。
 大層ご機嫌な李白は突如立ち上がると大きな声で歌い出す。美声とはほど遠く、お世辞にもうまいとはいえない独唱。それにもふたりはイヤな顔ひとつせずに、脚で調子をあわせながら聞き入っている。歌い終えた李白は満面の笑みを浮かべてふたりに一礼した。拍手をもってそれにこたえる。
「やあやあ、ふたりともご静聴、ありがとう」
 少し照れくさそうに頭を掻きながら、満更でもなさそうである。席に戻ると、ふたりの杯が空いてるのに気付き、慣れた手つきで柄杓を振るう。
 元林宗は以前、訪れたときに比べて親友の屋敷がこざっぱりしていることに気がついた。いつも「千金の逸品」とうそぶいていた自慢の狐の裘も見当たらない。部屋を見渡す親友に気付いた李白が得意げに酒樽を指差す。
「君が探しているものはそこにあるよ」
 元林宗は酒を探しているわけではないと首を振った。
「だから、君が探しているものはそれだよ。狐の裘を売り払ってそれに換えたんだ」
 ふたりとも目を白黒させる。
「ほかにも金になりそうなものは全部売り払って酒にしてしまったよ。俺にとっては金や物よりも、ずっと酔い続けることの方が大事なんだよ」
 そう言うと、すっかり質素になった屋敷の主は豪快に笑い、また酒を口に流し込んだ。
「うまい酒には、うまい料理さ。さあさあ、ご馳走も用意してある。遠慮なくやってくれ」
 ふたりの分を小皿に取り分けて勧める。上等な肴は酒の量を増す。李白の酒量はさらに加速していった。三人の酒宴は実に豪華なものとなった。
 宴もたけなわ。元林宗は親友に自慢の裘まで売り払ってしまったことについて尋ねた。
 三拍の沈黙。李白は頷いて親友の問いに応えた。
「儚い世の中、辛い人生。酔っているときくらいは忘れられるんだよ」
 ふと立ち上がり、両手で樽から酒を掬いあげた李白は、じっと手に結ぶ月影を見つめた。刹那、ふたりの親友は彼の哀しげな瞳を認めた。
 李白は両手で掬い上げた酒を思いきり空に向かって放り投げた。天を見上げ、全身で落ちて来る飛沫を受け止める。
「さあ、飲もうか」
 再び席に戻り、相変わらずの柄杓捌きでふたりに杯を勧める。豪快な飲みっぷりは変わることなく、杯を干すと再び赤子のような笑みを浮かべる。
 このとき、李白の頬が濡れていたのは浴びた酒のせいだけではなかった。

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2009年6月11日 (木)

橋下の契

 何回も春を迎え冬を越し、季節はめぐってひとの歴史は繰り返される。青くそびえる山々はかつての姿のまま。天に浮かぶ月は変わらずひとの営みを照らし続けている。

 男がいた。名を尾生という。大変な正直者として村の中でも評判の人物である。普段から真面目に田畑を耕し、温和な人柄で誰も彼の悪口を言うようなものはいなかった。
 そんな尾生には思いを寄せる女がいた。顔を真っ赤にしながらその女に逢瀬を申し込んだ。
「うん。わかった」
 女の返事に尾生は跳ね上がらんばかりに喜んだことは容易に想像できよう。ふたりで日取りと場所を決めると、尾生と女は別れた。
「おやおや尾生さん。やけに嬉しそうじゃないか」
 吹き抜ける風がささやきかけてきた。
「ふふふ。そうなんだよ。大事な大事な約束をしてもらったんだよ。今日からこの約束が僕の生きる力になるんだよ」
 尾生の応えに、一度は吹き抜けていった風が戻ってきて語りかける。
「そうかいそうかい。それほどまでに大事な約束をできるなんて、素晴らしいじゃないか」
 尾生は風とともに語り合いながら家路を行く。足取りも軽く、気がつけばもう家の前についていた。あたりはすっかり暗くなっていた。
 その日から小さな小さな約束が尾生の生きがいとなった。その約束が彼の世界の中心になった。

 それより尾生は日に何度となく指折り数をかぞえるようになった。約束の日までの日数を。指を折る本数が少なくなるにつれ、彼のこころは希望と期待に満ちあふれていった。
 以前にも増して尾生は汗水垂らして田を耕した。しかし、その顔は輝いていた。小さな約束が彼に力を与えているのであった。

 約束の日を明日にひかえた晩、尾生は寝付くことができなかった。窓から差し込む月の光に誘われて外に出ると、薪を割るためにしつらえた切り株に腰掛けた。満天の星の下、風にそよぐ草擦れの音と、微かな虫の声だけが聞こえる。
「おやおや尾生さん。今晩はどうしたんだい?」 草の影から踊り出てきた虫が不思議そうに問い掛ける。
「明日は大事な約束があってね。そのことを思うと心が踊ってしまい、床についても全然眠れないんだ」
 膝の上に跳び移ってきた虫に対して応える。
「そうか。眠れないほど楽しみなんだ。それはいいね」
 自然と頬を緩ませる尾生に虫が羨しそうに言った。
 尾生は空を見上げながら、夜が明けるのを遅し遅しと待ちわびていた。

 東から日輪が顔をのぞかせると、夜明けを知らせる鶏たちが大合唱をはじめる。約束の刻限は昼であったが、いてもたってもいられない尾生は一番鶏の鳴き声とともに家を出立した。
 朝の空気は清々しい。普段は目覚めるように追い立て、ときに忌々しさすら感じさせる雀のさえずりさえも今日は喜々として聞こえる。
「おやおや尾生さん。今朝はやけに早いじゃないか」
 あばら家の屋根から尾生を見下ろす雀が問い掛ける。
「今日は大事な大事な約束がある日なんだよ」
 照れくさそうに応える尾生の顔はこぼれんばかりの笑みに満ちている。
「そうかい、そうかい。そりゃあ良かった。気をつけて行ってらっしゃい」
 雀は屋根の上を二、三度跳ねて飛びさって行った。尾生は軽く右手を挙げてその後ろ姿を見送った。頬に赤みをたたえた満面の笑みのままに。

 待ち合わせの場所は村を流れる川にかかる橋の下。この村の生活用水は穏やかな流れをたたえている。くるぶし程度の深さなので歩いて渡ることもできる。子どもたちにとって絶好の遊び場でもあり、大人たちも夏にもなれば涼を得るのにこの上ない。普段は水量も少なく、ところどころに洲がある。橋桁のところにもちょうど洲があり、そこが約束の場所であった。
 元気を持て余している子どもたちにとって、早朝は遊びを禁ずる理由にはならない。尾生が橋につくと、すでに数人の子どもが小川の中でカエルを追い回していた。尾生は子どもたちを横目に橋桁の側に腰掛けた。数十歩先から元気な子どもたちの歓声と飛び跳ねる姿が見える。
 子どもに追い回されたカエルが橋桁のところに一匹、逃げて来た。橋桁の側に人影を認めると一拍、身構えたが尾生であることがわかるとすぐに警戒を解いた。
「おやおや尾生さん。こんなところで何をしているんだい」
 カエルは頬を風船のように膨らまして問い掛ける。
「うん。人を待っているんだ。大事な大事な人を」
 雀に応えたときと同じ調子でカエルにも返した。
「なるほど。道理でいい顔してるわけだ」
 尾生の顔がみるみる真っ赤に染まっていった。カエルも嬉しそうにダミ声で鳴いた。
 子どもたちが水飛沫を立てながらこちらに駆けてくる。
「おっといけない。気付かれてしまったようだ。また今度、話を聞かせておくれ」
 カエルは子どもたちから逃げるため大きく飛び跳ねていった。夢中になっている子どもたちには尾生の姿は視界に入らず、歓声を上げながら駆けて行った。
 約束の刻限までにはまだ少し時間があった。一刻一刻が待ち遠しい。尾生の生きがいであり世界の中心。暇さえあれば昼夜を問うことなく指を折って今日という日を数え続けた。一日千秋の思いでその時を待ち続けた。約束の刻限までの時間は尾生にとって果てしなく長いものであった。それでも尾生にとっては待ち続ける。彼にとって生きがいであり世界の中心なのだから。

 天空に太陽が駆け上がる。登り詰めた日輪が尾生に正午であることを知らせた。約束の刻限である。しかし、橋の下にいるのは尾生ただひとり。
「きっと何かあって遅れているのだろう」
 橋の下で背伸びをして座り直した。聞こえるのは清流の音のみ。のどかな時間が流れる。
 ふと目線を上げると餅売りが土手の上を歩いてきた。朝から何も食べていないことに気がついた尾生は手招きして呼び止めた。
「そうだ。彼女が来たら一緒に食べよう。喜んでくれるといいな」
 尾生は餅をふたつ買い求めた。
「ところで若い人、こんなところでなにをやっているんだい?」
 初老の餅売りは代金を受けとり、餅を差し出しながら尋ねた。
「ひとを待っているんだ。この餅はふたりで食べさせてもらうよ」
 喜々として語る尾生の様子に、餅売りも思わず頬が緩む。
「嬉しそうだね、若い人。うちの餅は飛び切りだ。味は保証するよ。いい日になることを祈るよ」
 餅売りは大事な餅を入れた荷を背に担ぎ直した。
「若い人。早く待ち人が来るといいね」
 照れくさそうに右手で頭をかく尾生に、柔らかい笑顔を投げ掛け、初老の餅売りはゆっくり歩き出した。

 数刻が経った。
 橋の下には尾生がひとり。それでも尾生は信じて待っていた。竹の葉に包まれた餅を膝の上に乗せて待っていた。
「なにかあったのだろうか…大丈夫だろうか?」
 尾生には帰るという選択肢はなかった。この約束こそが彼の生きがいなのだから。陽が傾きかけたいまなお、橋の下で約束を心の支えとして待ち続けていた。

 雲一つなかった空に暗雲がたちこめる。瞬く間に辺りは暗くなった。やがて雷鳴とともに大粒の雨が地面を激しく叩きだした。
 尾生は橋の下にいる。雨に濡れることはないので相変わらず座り続けている。篠つく雨を眺めながら、待ち続けていた。 ふと、尾生は爪先に冷たさを感じた。

 約束の場所は村の外れを流れる小川にかかる橋の下である。普段はところどころに洲がある穏やかな川である。尾生の座る橋の下はちょうど洲になっており、清流の涼を求めて、人々がよく集う場所であった。しかし、それも普段の話である。
 突然の豪雨は徐々に川の水位をあげた。尾生の座る洲も川の底になりつつあった。大きく投げ出していた足に川の水がかかってきたのである。
 それでも尾生はその場を動こうとはしなかった。
「約束したんだ。ここで会うって…」
 迫りくる水にも逃げようとはしなかった。流されまいと橋の柱にしがみついた。
「約束したんだ。必ず来てくれる…」
 尾生は脇に抱えた餅に目をやり、頷いた。
 次の瞬間、上流から濁流が押し寄せてきた。突然の豪雨によって堰が決壊したのである。
 迫りくる濁流。それでも尾生は逃げようとはしなかった。最期までその場を動こうとはしなかった。たったひとつの約束を信じて…

 そして、待ち人が現れることはなかった。

 よく朝。昨日の荒れが嘘のように、川は普段の穏やかさを取り戻していた。いつものように子どもが楽しげに水飛沫を上げている。今日も元気にカエルを追い回している。
「なんだこりゃ?」
 ひとりの子どもが河原に塊を見つけた。泥を払うと笹に包まれた餅がふたつ出てきた。
 子どもが塊に気をとられている隙にカエルは橋の下まで逃れてきた。一息ついて何気なく橋の柱を見上げると、小さな傷がいくつも着いていた。ひとの掌を合わせると、ちょうど指先に重なるような傷であった。カエルは尾生のたどった運命を認識した。命を捨ててまで約束を信じて待ち続けた男の最期を知ったのは、この小さなカエルだけであった。
「待ち人が来ないことを知らずに死んだことは、ある意味幸せだったのかもなぁ…でも、哀しすぎるぞ…尾生」
 カエルは数度、哀しげな声で鳴き、何かを振り切るように跳び去った。

 土手の上を行李を背負った初老の餅売りが歩いている。近くまでくると橋の下を一瞥した。
「昨日の若い人、いい顔をしていた。きっとふたりでおいしく餅を喰ってくれたことだろうよ」
 餅売りが満足げに立ち去った後、風が一瞬だけ静かな小川に波を立てた。

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2009年6月 4日 (木)

ゲマインシャフトの哀しみ

狡兎死して良狗煮られる。
高鳥尽きて良弓蔵われる。

『史記』淮陰侯列伝などにみられる言葉。

すばしっこい兎がいなくなれば用済みの猟犬は煮殺される。
空飛ぶ鳥がいなくなれば使わなくなった弓は蔵にしまわれて見向きもされなくなる。
この世の人々もそんなものではないだろうか。
必要があるときは重宝されても、用が済めば振り向きもしなくなる。

かつては主がために兎を取り続けた犬は煮られずとも、飢えていようがもはや知ったことではない。
かつては主がために鳥を落とし続けた弓も埃をかぶっていても拭われることはない。

人間、一番大事なものは結局自分。
自分が苦しいときはさかんに助けを求める。
苦しみから抜け出したときに他の人の苦しみに目を向け、助け出そうと考えられ、実行できる人間が果たしてどれだけいることか。
自分が抜け出してしまえばもうそれまでさ。
そう、自分のことが一番大事だから。
ひとの苦しみになど構う必要はないから。
見えなくなるから。

良狗が哀しく飢えるのも、良弓が寂しく埃をかぶるのも、仕方がないことなのか。
それは間違いだ…と思いたい。

使われるだけ使われて、用がなくなれば捨てられる。
良狗が主を助けても、主が良狗を助けるとは限らない。
所詮、良狗は主にとって「道具」にすぎないのだから。
主が良狗に餌を与えるのも、獲物を得るためであって良狗を思ってのことではないのだ。
「役目」を終えた良狗がいくらかなしい鳴き声を上げても振り返るものなど誰もいない。

うきよの人々の交わりは主と良狗のようなものがなんと多いことか。
また主になるものは次も主に。
良狗になるものは次も良狗になりがち。
良狗にとってこれはあまりにも寂しく、哀しいことではないか。

そんなことは間違いだと思いたいのだが…

所謂天道是耶非耶…

狡兎死して良狗煮られる。
高鳥尽きて良弓蔵われる。

二千年以上も昔の言葉。

人の情けや義理など所詮はそんなもの。

昔も今も、そんなもの。

やんぬるかな、やんぬるかな…

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2009年5月30日 (土)

柱を抱いて死する尾生に捧ぐ一首

むかし尾生という男がいた。
ある女と橋の下で会う約束をした。

約束の日。
尾生は刻限よりも早く場所へとむかい待った。
ところが約束の時間になっても待ち人は来ず。
それでも尾生は信じて待ち続けた。

雨が降り出した。
叩き付けるような豪雨である。
橋の下にあって雨には濡れない。
だが外を歩く人はいない。
それでも尾生は待ち続けた。

川の水かさが増す。
尾生が立つ洲も次第に川底となりはじめていた。
約束を信じて尾生は待ち続けた。
すでに腰の高さまで水につかってしまっている。
流されまいと橋の柱に抱き付きながら待ち続けた。

容赦なく降り注ぐ雨に川の増水はとどまることを知らず。
尾生は水中に没していった。
柱を抱いたまま、約束を信じたまま、溺死した。
最後の最後まで待ち続けたのであった。

とうとう待ち人は現れなかった。

「尾生信」「抱柱信」として語り継がれている有名な話である。
後世、尾生は信義を守り抜いた人物として評価されている。
しかし、彼にとって幸せだったことは待ち人が来なかったことを知らぬままに死んだことだろう。

信じ続けた約束。
それを反故にされた苦痛。

人は期待や信頼を裏切られたときこころに傷を負う。
その思いが強ければ強いほど。
命を捨てるだけの思いを持った尾生ほどの男ならば悩み苦しんだに違いない。

苦しむことなく死んだことこそ、尾生にとって一番の幸せだったのだろう。
信義の士という称讃などよりよほど幸せなことだと思う。

そのことが無性に哀しく、そして羨しい。

今宵の琴は尾生に捧げよう。
誰も聞くことのない我が琴の音を。

五月雨に 尾生の信を しのびつつ
 濡れる琴の音 露のみぞなし

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2009年5月26日 (火)

クモの糸はどこに?

一番いい状態のときの夢を見ました。
いまの自分にはダメージがデカすぎます…

すっかり忘れられているのかな。
しっかり無視されているのかな。
そもそも最後の約束さえもあの場で流されてしまったのかな。
忙しくてそんな余裕もないのかな。
元気でやっているかな。

音信不通。
覚悟はしたつもりだけど。
この2年間が大きすぎました。
求めてはいけないのだろうけど、繰り返しになるけど「ありがとう」や「お疲れ様」。
この一言くらいは欲しかった。
たぶん、それがあれば現状、ここまで落ちることはなかったと思います。

見返りを求めるのは筋違いだということはわかっているけど…
都合のいい時だけかまわれて、こっちが勝手にとはいえ振り回されて…
用が済んだら義理も人情もなし。
そんなことだとは認めたくはないです。
これまでの自分がかわいそう過ぎます。
でも…

報われたいと思うことは罪でしょうか。
私は求めすぎなのでしょうか。

こんなこと言ってても何も変わりはしないですが。
つかれた。

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2009年5月24日 (日)

辛抱、辛抱、永久辛抱…

どうしよう。

もう持ちこたえられないかもしれない…

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