何回も春を迎え冬を越し、季節はめぐってひとの歴史は繰り返される。青くそびえる山々はかつての姿のまま。天に浮かぶ月は変わらずひとの営みを照らし続けている。
…
男がいた。名を尾生という。大変な正直者として村の中でも評判の人物である。普段から真面目に田畑を耕し、温和な人柄で誰も彼の悪口を言うようなものはいなかった。
そんな尾生には思いを寄せる女がいた。顔を真っ赤にしながらその女に逢瀬を申し込んだ。
「うん。わかった」
女の返事に尾生は跳ね上がらんばかりに喜んだことは容易に想像できよう。ふたりで日取りと場所を決めると、尾生と女は別れた。
「おやおや尾生さん。やけに嬉しそうじゃないか」
吹き抜ける風がささやきかけてきた。
「ふふふ。そうなんだよ。大事な大事な約束をしてもらったんだよ。今日からこの約束が僕の生きる力になるんだよ」
尾生の応えに、一度は吹き抜けていった風が戻ってきて語りかける。
「そうかいそうかい。それほどまでに大事な約束をできるなんて、素晴らしいじゃないか」
尾生は風とともに語り合いながら家路を行く。足取りも軽く、気がつけばもう家の前についていた。あたりはすっかり暗くなっていた。
その日から小さな小さな約束が尾生の生きがいとなった。その約束が彼の世界の中心になった。
それより尾生は日に何度となく指折り数をかぞえるようになった。約束の日までの日数を。指を折る本数が少なくなるにつれ、彼のこころは希望と期待に満ちあふれていった。
以前にも増して尾生は汗水垂らして田を耕した。しかし、その顔は輝いていた。小さな約束が彼に力を与えているのであった。
…
約束の日を明日にひかえた晩、尾生は寝付くことができなかった。窓から差し込む月の光に誘われて外に出ると、薪を割るためにしつらえた切り株に腰掛けた。満天の星の下、風にそよぐ草擦れの音と、微かな虫の声だけが聞こえる。
「おやおや尾生さん。今晩はどうしたんだい?」 草の影から踊り出てきた虫が不思議そうに問い掛ける。
「明日は大事な約束があってね。そのことを思うと心が踊ってしまい、床についても全然眠れないんだ」
膝の上に跳び移ってきた虫に対して応える。
「そうか。眠れないほど楽しみなんだ。それはいいね」
自然と頬を緩ませる尾生に虫が羨しそうに言った。
尾生は空を見上げながら、夜が明けるのを遅し遅しと待ちわびていた。
…
東から日輪が顔をのぞかせると、夜明けを知らせる鶏たちが大合唱をはじめる。約束の刻限は昼であったが、いてもたってもいられない尾生は一番鶏の鳴き声とともに家を出立した。
朝の空気は清々しい。普段は目覚めるように追い立て、ときに忌々しさすら感じさせる雀のさえずりさえも今日は喜々として聞こえる。
「おやおや尾生さん。今朝はやけに早いじゃないか」
あばら家の屋根から尾生を見下ろす雀が問い掛ける。
「今日は大事な大事な約束がある日なんだよ」
照れくさそうに応える尾生の顔はこぼれんばかりの笑みに満ちている。
「そうかい、そうかい。そりゃあ良かった。気をつけて行ってらっしゃい」
雀は屋根の上を二、三度跳ねて飛びさって行った。尾生は軽く右手を挙げてその後ろ姿を見送った。頬に赤みをたたえた満面の笑みのままに。
…
待ち合わせの場所は村を流れる川にかかる橋の下。この村の生活用水は穏やかな流れをたたえている。くるぶし程度の深さなので歩いて渡ることもできる。子どもたちにとって絶好の遊び場でもあり、大人たちも夏にもなれば涼を得るのにこの上ない。普段は水量も少なく、ところどころに洲がある。橋桁のところにもちょうど洲があり、そこが約束の場所であった。
元気を持て余している子どもたちにとって、早朝は遊びを禁ずる理由にはならない。尾生が橋につくと、すでに数人の子どもが小川の中でカエルを追い回していた。尾生は子どもたちを横目に橋桁の側に腰掛けた。数十歩先から元気な子どもたちの歓声と飛び跳ねる姿が見える。
子どもに追い回されたカエルが橋桁のところに一匹、逃げて来た。橋桁の側に人影を認めると一拍、身構えたが尾生であることがわかるとすぐに警戒を解いた。
「おやおや尾生さん。こんなところで何をしているんだい」
カエルは頬を風船のように膨らまして問い掛ける。
「うん。人を待っているんだ。大事な大事な人を」
雀に応えたときと同じ調子でカエルにも返した。
「なるほど。道理でいい顔してるわけだ」
尾生の顔がみるみる真っ赤に染まっていった。カエルも嬉しそうにダミ声で鳴いた。
子どもたちが水飛沫を立てながらこちらに駆けてくる。
「おっといけない。気付かれてしまったようだ。また今度、話を聞かせておくれ」
カエルは子どもたちから逃げるため大きく飛び跳ねていった。夢中になっている子どもたちには尾生の姿は視界に入らず、歓声を上げながら駆けて行った。
約束の刻限までにはまだ少し時間があった。一刻一刻が待ち遠しい。尾生の生きがいであり世界の中心。暇さえあれば昼夜を問うことなく指を折って今日という日を数え続けた。一日千秋の思いでその時を待ち続けた。約束の刻限までの時間は尾生にとって果てしなく長いものであった。それでも尾生にとっては待ち続ける。彼にとって生きがいであり世界の中心なのだから。
…
天空に太陽が駆け上がる。登り詰めた日輪が尾生に正午であることを知らせた。約束の刻限である。しかし、橋の下にいるのは尾生ただひとり。
「きっと何かあって遅れているのだろう」
橋の下で背伸びをして座り直した。聞こえるのは清流の音のみ。のどかな時間が流れる。
ふと目線を上げると餅売りが土手の上を歩いてきた。朝から何も食べていないことに気がついた尾生は手招きして呼び止めた。
「そうだ。彼女が来たら一緒に食べよう。喜んでくれるといいな」
尾生は餅をふたつ買い求めた。
「ところで若い人、こんなところでなにをやっているんだい?」
初老の餅売りは代金を受けとり、餅を差し出しながら尋ねた。
「ひとを待っているんだ。この餅はふたりで食べさせてもらうよ」
喜々として語る尾生の様子に、餅売りも思わず頬が緩む。
「嬉しそうだね、若い人。うちの餅は飛び切りだ。味は保証するよ。いい日になることを祈るよ」
餅売りは大事な餅を入れた荷を背に担ぎ直した。
「若い人。早く待ち人が来るといいね」
照れくさそうに右手で頭をかく尾生に、柔らかい笑顔を投げ掛け、初老の餅売りはゆっくり歩き出した。
…
数刻が経った。
橋の下には尾生がひとり。それでも尾生は信じて待っていた。竹の葉に包まれた餅を膝の上に乗せて待っていた。
「なにかあったのだろうか…大丈夫だろうか?」
尾生には帰るという選択肢はなかった。この約束こそが彼の生きがいなのだから。陽が傾きかけたいまなお、橋の下で約束を心の支えとして待ち続けていた。
…
雲一つなかった空に暗雲がたちこめる。瞬く間に辺りは暗くなった。やがて雷鳴とともに大粒の雨が地面を激しく叩きだした。
尾生は橋の下にいる。雨に濡れることはないので相変わらず座り続けている。篠つく雨を眺めながら、待ち続けていた。 ふと、尾生は爪先に冷たさを感じた。
…
約束の場所は村の外れを流れる小川にかかる橋の下である。普段はところどころに洲がある穏やかな川である。尾生の座る橋の下はちょうど洲になっており、清流の涼を求めて、人々がよく集う場所であった。しかし、それも普段の話である。
突然の豪雨は徐々に川の水位をあげた。尾生の座る洲も川の底になりつつあった。大きく投げ出していた足に川の水がかかってきたのである。
それでも尾生はその場を動こうとはしなかった。
「約束したんだ。ここで会うって…」
迫りくる水にも逃げようとはしなかった。流されまいと橋の柱にしがみついた。
「約束したんだ。必ず来てくれる…」
尾生は脇に抱えた餅に目をやり、頷いた。
次の瞬間、上流から濁流が押し寄せてきた。突然の豪雨によって堰が決壊したのである。
迫りくる濁流。それでも尾生は逃げようとはしなかった。最期までその場を動こうとはしなかった。たったひとつの約束を信じて…
そして、待ち人が現れることはなかった。
…
よく朝。昨日の荒れが嘘のように、川は普段の穏やかさを取り戻していた。いつものように子どもが楽しげに水飛沫を上げている。今日も元気にカエルを追い回している。
「なんだこりゃ?」
ひとりの子どもが河原に塊を見つけた。泥を払うと笹に包まれた餅がふたつ出てきた。
子どもが塊に気をとられている隙にカエルは橋の下まで逃れてきた。一息ついて何気なく橋の柱を見上げると、小さな傷がいくつも着いていた。ひとの掌を合わせると、ちょうど指先に重なるような傷であった。カエルは尾生のたどった運命を認識した。命を捨ててまで約束を信じて待ち続けた男の最期を知ったのは、この小さなカエルだけであった。
「待ち人が来ないことを知らずに死んだことは、ある意味幸せだったのかもなぁ…でも、哀しすぎるぞ…尾生」
カエルは数度、哀しげな声で鳴き、何かを振り切るように跳び去った。
土手の上を行李を背負った初老の餅売りが歩いている。近くまでくると橋の下を一瞥した。
「昨日の若い人、いい顔をしていた。きっとふたりでおいしく餅を喰ってくれたことだろうよ」
餅売りが満足げに立ち去った後、風が一瞬だけ静かな小川に波を立てた。
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